風水の起源は元々、お墓から始まっているということを知っている人は意外に少ないのではないかと思います。
風水は元々は、ご先祖のお墓(陰宅風水)を作り、子孫繁栄を願うために考えられたものでしたが、のちに自分たちの生活する家(陽宅風水)がメインになるようになりました。
風水師と名乗る人でも、陰宅風水理論まで勉強している人は少ないのですが、私は師匠から陰宅についても学ぶ機会を得ることができましたので、本業の不動産・建築・リフォームには直接関係ないのですが、陰宅理論が今の陽宅理論の基礎となっていますので、役に立っていると思います。
日本のお墓でも陰宅風水の歴史では、奈良県明日香村にある「キトラ古墳」があげられます。
誰が埋葬されていたのかはまだ分かっていませんが、西暦700年前後に作られたと言われています。
この古墳には「四神相応」である「青龍」「白虎」「朱雀」「玄武」が東西南北の壁に書かれており、上部には天文図が書かれています。
京都の平安京も「四神相応」で作られた都でもありますから、この時代にはかなり風水思想が日本にも根付かれていたのでしょう。
しかし、風水って住宅に使うものとは皆さんよく知っていますが、日本人がお墓には風水は関係ないと思ってしまった理由ってわかりますか?
それは、お墓の文化が日本はあまりないからなのです。
位の高い人以外の庶民がお墓を作ってよくなったのは、江戸時代末期からなのです。
奈良時代の文武天皇の時に制定された「大宝律令」の中に「喪葬令」というのがあって、平民がお墓を作ることを禁じられました。
時の権力者が風水による威力を畏れたのでしょうか。
こういうことから、位の高い特権階級の人しか作れず、しかしながら位の高い人たちは、ちゃっかりと風水理論で作っていたわけですね。例えば、天皇家や徳川家康など。
ですから、かわいそうに平民は家族が亡くなっても、河原、海岸、山中に埋めて、せいぜい小石をかき集めて、上に乗せるくらいしか出来なかったわけです。
これでは、お墓の文化は成り立たないですよね。
それが、ようやく平民がお墓を作られるのが許されたのが、江戸時代末期の1831年に「墓石制限令」が出来て、ようやくお墓を作ってもいいよということになりました。それでも高さ120センチ程度まででしたが。
この頃から日本にお墓の文化が少しずつ花を開いていくのですね。
風水でお墓を作るときでも、もちろん、巒頭(らんとう)と理気(りき)で判断していきます。
巒頭(らんとう)とは、土地が龍気に乗り、水や砂で守られているかを判断していく方法で、理気は、天体と地のエネルギーが織りなす運気と方位を計算していく方法です。
特に、お墓では地の気が強く影響するので、両元八運(180年周期)で見ます。住宅は天の気が強く影響しますので三元九運(180年周期)で見ます。
今回の熊本地震や火山活動などの影響は、この地のエネルギーを読み解く「両元八運」を見ると理由が分かってきます。
これについては、改めて書きたいと思っています。
住宅風水が大分、日本でも根付いてきましたが、次はお墓にも浸透していくかと思います。
住宅で開運につなげるということは大切ですが、根っこであるご先祖様が眠るお墓、自分が亡くなって子供たちが幸せになってもらいたいということであれば、お墓を作る際も是非、風水で考えた方がよろしいのではないかと思います。
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